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3・11尚も残る、人工地震・・・・陰謀論


<大震災7年>忘れられたくない 遺族、記憶に向き合い一歩


3/10(土) 11:32配信

毎日新聞


 「忘れられたくない」--。東日本大震災の津波で常磐山元自動車学校(宮城県山元町)に通っていた子どもを亡くした遺族たちが震災から7年を前に、あの日のことを語り始めた。学校に損害賠償を求めた訴訟が和解してから約2年。亡くなった子どもや震災のことを覚えていてほしいとの強い思いで口を開いた。【本橋敦子】

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 9日午後3時半すぎ。冷たい雨が降る中、学校跡地近くの寺で、遺族会の寺島浩文代表(55)ら3人が大学生約160人に子どもたちのことなどを話した。その中に高校を卒業したばかりの長女薫さん(当時18歳)を亡くした早坂由里子さん(54)=同県亘理町=の姿があった。「元気だったら、どんなふうに過ごしているかな、どんなにかわいい娘になっているかな。想像すると、親としてはつらいものがあります」。涙ながらに訴えた。

 由里子さんは震災後、家を訪ねて来た娘の友達から、高校生活の様子を聞いた。何が好きだったか、みんなとどう過ごしていたか。娘は自分のことをあまり話してくれなかったから、初めて聞く話が多かった。

 「私、18歳で死ぬんだ」。卒業式の前、突然娘がそう話したのを思い出す。なぜそんなことを言ったのか。「少しでも声が聞けたら」。どんなに時間がたっても、会いたい気持ちは変わらない。

 薫さんの父満さん(56)はあの日、大きな揺れが襲った後、教習に出かけていた娘の携帯電話を鳴らし続けた。午後4時10分過ぎに一度だけつながった。電話口から「うー、うー」と男性のような低い声が聞こえ、混線と思って切ってしまったが、そのころ学校から帰る途中の娘が乗った送迎バスは津波にのまれていた。「切らずにいたら助けられたかもしれない」。悔いが残った。

 薫さんは学校から2キロほど離れた場所で見つかった。満さんは通勤時、その場所の前を必ず通り、そこで車を止める。窓を開けて20秒。いつも娘の笑顔が思い浮かぶ。震災の9日前、仙台市へ買い物に行くという娘にお小遣いを渡した際に見せた笑顔が、なぜか目に焼き付いている。

 2年ほど前、震災の時の経験を思い出せないことがあった。「親失格だ」と自分を責めた。振り返るのはつらいが、忘れてしまうのはもっと怖い。だから必死に記憶をなぞってきた。

 震災からまもなく7年。決して節目ではないが、流れた歳月が、2人の「忘れられたくない」との思いを強くさせた。他の被災地域で活動する遺族の姿も「語らねば」という気持ちを後押ししてくれる。少しずつ思いを発信していく。

 【ことば】常磐山元自動車学校津波訴訟

 東日本大震災の津波で常磐山元自動車学校(宮城県山元町)の教習生25人が死亡したのは学校が安全配慮義務を怠ったためとして、遺族が学校側に損害賠償を求めた訴訟。1審・仙台地裁は学校側の責任を認めて計約18億5000万円の賠償を命じたが、学校側と一部遺族が控訴。2016年5月、社長の陳謝などを条件に仙台高裁で和解した。勤務中に犠牲となり、学校側に損害賠償を求めた従業員1人の遺族も同7月に仙台高裁で和解した。



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