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GLA関西本部・高橋信次師講演会・・・・3

般若心経の解説(3)

(前号より)

今、皆さまのなかに、私の神理を聞いた人々の中から、シュバラーに近い状態になる人が出始めております。私の講演が終わったのちにその人たちの心に光を入れれば、波羅蜜多の偉大なるその智慧、潜在された、内在された過去に学んできたところの自分自身の体験が、今の肉体を持った人を通して語り始めます。菩薩とは、ボサターを言うのですから、まだボサッとしているところがある。だから、菩薩と言っても決してまだ立派なものではありません。
そこで、観自在菩薩と言われるようには、神理に適うよう行ずるのですが、大抵は間違いを犯してしまう場合が多いのです。行深と言うと行を深くするということになる。そこでハァ行をするというんだから、山の中に入って滝にでも打たれ、厳しい肉体的な修行をすることによって悟り得るんだなあーと。それには、この魔訶般若波羅蜜多を一生懸命に上げればよいんだなあーと、こう思ってしまって、金剛杖か何かを持って観自在菩薩、行深般若波羅蜜多と言って、厳しい肉体行をしていく、そのうちに心がカラッポになったところへ動物霊か何かが入ってくる。すると、その人に入った動物霊が出て、ついに神様が出て来たなんていうことになって稲荷大明神が一つ出来上がるわけです。そういうことをよく考えると、この行深という意味が非常に重要な意味を持ってくるのです。

行深ということは、神理に適った毎日の生活、これを深く行う。そうすると智慧の波羅蜜多が涌現されてくる。この波羅蜜多という内在された自分の心を涌現する、思い出すには、まず中道の神理に適した生活をしなかったならば、心の中に曇りが出てしまって神の光を遮ってしまいます。遮ってしまうから、暗い心に閉ざされるからあの世とは通じません。あの世と通じないから凡人です。明日の事も目先の事もわからなくなってしまいます。そこで自分の心の中がきれいであれば光が差し込んでまいります。そういう生活をすることが一番重要であり、深く行ずることなのです。そこで般若波羅蜜多時、悟りに到達するために深く自分自身がそういう生活をした時に、観自在菩薩、つまり自由自在に見ることが出来るのです。

五蘊皆空度一切苦厄舎利子  。ここで苦厄というのは、苦しみや災難。それはここでいう五蘊という皆さまの目や耳や鼻や口、肉体の五官を通してそのような苦しみが出てくるのです。その苦しみも、実は五官から生ずる六根のため神の光を遮ってしまうので、我々はそのような苦しみを作ってしまうということを観自在菩薩はよくわかっております。しみを作ってしまうということを観自在菩薩はよくわかっております。舎利子というのはシャリー・プトラー。これを日本でいうと舎利弗。インドの時代はシャーリ・プトラーと言っております。
このシャーリ・プトラーという人は、ゴーダマ・シッタルダーが四十二才の頃にデンドーナーというところへ訪ねてきたアサンジャーといわれる大婆羅門の従兄弟です。その友達にマハー・モンガラナー(大目蓮)という男がおりました。この人は理論的にも多くの神理を説くことができ、ゴーダマ・シッタルダーも重用しました。何れにせよ、シャーリ・プトラーは97、8才でこの世を去りました。

ここではシャーリ・プトラーは弟子に対する一つの代名詞のようなものなので、舎利子とは諸々の衆生よ、ということになり、偉大なる般若波羅蜜多という悟りの境地は、観自在菩薩という自由自在に見ることの出来る境地であり、あの世もこの世もアボロキティ・シュバラーという方は、この地上界とあの世、そしてまた未来、皆さまの過去と現在と未来、これらのものを自由自在に見ることの出来る悟られた方であるということを舎利子に言っているのです。また、苦しみ悲しみをつくる五官を通した六根にほんろうされてはならない。もともと六根というものは実体のないものであり、これにとらわれるから不幸を作るのであり、これらから遠離しなければならない。わかったか舎利子よ、ということも合わせて言っています。

次に、この皆空、一切は空であるという。空というのは、あの世のことを言っております。実在界あの世、あの世というのは実際にものが実在する世界で、そのあの世からこの地上界に投影されている世界、あの世からの映写機で、いわば幕を透してこの三次元という世界に宇宙というものが投影されていて、しかも立体モーションピクチャーであの世から操られているわけです。
操られて皆さまは生活しているにもかかわらず、その操り人形が勝手な行動をしてしまうから、いろいろと問題が出てきてしまうわけです。五蘊という目や耳や鼻や舌を通して、皆さまは嫌なことを聞くと、つい頭にきてしまったり、感情的になってしまったりして、自分で苦しみや災難を作ってしまうのです。そうなってまいりますと、私たちはそのような操られていることに対して反省をすることによって、我々はなんでこのような苦しみや災難が起こるのかということが自分でよくわかるはずです。それもしないで、自分の苦しみだけを他人のせいにしたり、生活環境を妬んだり、恨んでしまったりするのです。また、その操られている者が、つい生命を持っているから自分勝手な方向へ行ってしまう。
そこで、あちらの人はどうするんだろうと言っているわけなんです。

(次号へ続く)


園頭広周師の過去世は、お釈迦様の十大弟子一番・舎利弗でした・・・・
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