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江夏氏、恩人ノムさんの死に沈痛…「後ろ姿見て育ってきた」
2/13(木) 7:00配信


江夏氏(17番)は南海に移籍した1976年、野村さん(右)とコンビを組む。左端は藤原満氏。江夏氏の右後方が柏原純一氏
 江夏、沈痛-。プロ野球の南海(現ソフトバンク)で戦後初の三冠王となるなど選手、監督として活躍した野村克也さん(享年84)の死去から一夜明けた12日、南海で指揮官と選手としてともに戦った江夏豊氏(71)が、ソフトバンクのキャンプ地・宮崎で恩師の急逝に言及。沈痛な面持ちで「後ろ姿を見て育ってきた」と感謝の思いを口にした。

【写真】「後ろ姿を見て育ってきた」と語る江夏豊

 ともに「革命」を起こした恩人は突然、天国へ旅立った。ソフトバンクのキャンプ地を訪れた江夏氏は、宮崎の曇天を寂しそうに見上げた。11日に急逝した野村さんへの思いを問われると、感謝と尊敬の念を口にした。

 「投げる方は(プロ野球史上最多400勝を記録した)金田(正一=国鉄、巨人)さん、野手なら野村さんがプロ野球を繁栄させた。その後ろ姿を見て、育ってきた」

 知人に会うために宮崎市内のキャンプ地に立ち寄った。工藤監督と言葉を交わして久々の現場を見守った後、恩師への思いを語った。

 大投手・江夏豊の歴史の中で、中興の祖といえる人物が野村さんだ。出会いは電撃トレード。1967年の阪神入団以降、6年連続で奪三振王に輝くなど大エースに君臨するも、血行障害や心臓疾患などで成績は徐々に下降。76年1月に江夏氏と望月充、南海は江本孟紀(サンケイスポーツ専属評論家)、島野育夫、長谷川勉、池内豊の2対4の大型トレードが成立した。

 事実上の放出に江夏氏は涙し、現役引退も考えたが、思いとどまらせたのが南海の選手兼任監督だった野村さん。投球術をほめてチームに迎え入れた。しかし、血行障害で50球も投げれば握力が落ちる。先発としては全盛期の力はない。だが、短いイニングなら-。1年目に思うような成績が出せなかった左腕を、風呂場で口説いた。

 「プロ野球に革命を起こしてみないか?」

 まだ投手の分業制が確立していない時代に、抑えへの転向をすすめた。自宅も近く、毎夜のように野球談義を交わす野村さんの説得で77年からリリーフに転向。193セーブを記録し、最優秀救援に5度も選ばれる史上最強ストッパー・江夏豊が誕生した瞬間だった。

 77年に野村さんが南海監督を解任されると「ワシは野村監督に拾われた人間。監督がやめる以上、俺もとどまるわけにはいかん」と言い、古葉監督に請われて広島へトレードで移籍。79、80年の日本一に貢献し、79年の近鉄との日本シリーズでは、1点リードで迎えた九回無死満塁の大ピンチを乗り切る「江夏の21球」という伝説も生んだ。それもこれも野村さんのおかげ。遠山奬志(阪神)、小早川毅彦(ヤクルト)、山崎武司(楽天)…。後に「野村再生工場」と呼ばれる手腕も、江夏氏と起こした革命がはじまりだった。

 「革命かはわからないけど、教えてもらったことは思い出だよ」

 11日の訃報は、早い段階で耳に入ってきた。最後に顔を合わせたのは昨年の東京ドームでの巨人-阪神戦。野村さんとのすべての思い出は宝物。寂しい、悲しいなどという言葉で、語り尽くせるはずもなかった。

 「簡単な言葉では…。残念でならない」

 2人で起こした革命は今や球界の常識となった。野村さんとの軌跡は、心からの誇り。球場を去るとき、江夏氏は寂しげにほほ笑んだ。





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