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中丸薫師は、芹沢先生と接点があったんだ・・・支離滅裂

結核は、この頃は、死病で、高原療法なんて、金持ちしかできない民間療法みたいだった・・
抗生物質は、戦後からの新療法だった・・・・
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芹沢 光治良
(せりざわ こうじろう)

芹沢 光治良(せりざわ こうじろう、1896年(明治29年)5月4日 - 1993年(平成5年)3月23日)は日本の小説家。静岡県沼津市名誉市民。 晩年には、「文学はもの言わぬ神の意思に言葉を与えることだ」[1]との信念に拠り、"神シリーズ"と呼ばれる、神を題材にした一連の作品で独特な神秘的世界を描いた。

(風たちぬ)
療養のため滞在していた軽井沢町にて、風で飛ばしたパラソルをたまたま通りかかった二郎が受け止めた際に、その青年が初恋の相手・二郎と気付く。写生の合間に泉で願かけしていたところに二郎が現れたことでかねてから胸に秘めていた想いを伝える。二郎との会食の約束は持病(結核)が悪化し、発熱したことで果たせなかったが、紙飛行機を通じて互いの想いを深めることになる。父の許しを得て交際を始めて将来を誓い合い、持病の結核を治すと宣言する。
しかし、病は悪化して喀血。治すために自ら希望して療養施設(富士見高原療養所)に入る。しかし、二郎への想いは抑えがたく、療養所を抜け出して二郎の元へ帰ってくる。その決意を知った二郎は黒川に仲人を頼み、二人は夫婦となる。日々深刻になる病に苦しむ姿を見せまいと気丈に振る舞い、連日深夜に及ぶ二郎の仕事を精神的に支える。だが、二郎が手がけていた飛行機の設計が終わり一段落ついたのを機に、置き手紙を残して療養所に戻った。その後、再び病は悪化し、のちに亡くなった。




フランス滞在中に結核に冒され療養につとめる(スイス・レザンには、芹沢が療養したとされるサナトリウムがその当時の建物のままで現存しており、名門校レザンアメリカンスクールの校舎として使用されている)。1929年帰国、1930年 療養中の体験に基づいた作品『ブルジョア』が、「改造」の2回目の懸賞小説に一等当選し文壇に登場した。中央大学講師。1943年『巴里に死す』を刊行。1952年『巴里に死す』が森有正によってフランス語訳され、1年で10万部のベストセラーとなる。1963年 自伝的長編『人間の運命』を刊行。1964年『人間の運命』で芸術選奨文部大臣賞を受賞。1965年 川端康成のあとを受け、第5代日本ペンクラブ会長となる。




(宮崎駿は、ユーミンのファン)
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宮崎駿は、もちろん平和主義者だけど・・・正義が正しいと信じて、善が悪を倒す、いまでも子供たちは、武器のプラモデルが人気ですね・・・・やはり、敵から攻撃を受けた時だけ憲法9条は生きて来るそれは、神武天皇以来の理想です・・・
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